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ADMRコラム㉔ 戦国武将の「生き残り戦略」
判断を誤れば国(会社)が滅ぶ。戦国時代でいえば、隣国の領主が、自国には攻めてきていないが周囲の国を併合して急速に力をつけている。今の時代ならば、同業他社が画期的な商品を開発・投入して自社の業績が下がって経営危機に陥ったといったところか。そこでどう決断するかが生き残りできるかどうかの分かれ目となる。
国や会社を発展させるには資金力がものをいうのは今も昔も同じ。武田信玄が強かったのは金山を持っていたからだとされ、毛利も石見の銀山があった。織田信長は商業や交易の発展に力を入れた。そうでないところは、強い武将に従うことにより生き残りを図った。ところが、これが難しい。どの武将が最強か、戦国時代は入れ替わりが激しいうえ情報も少ない。
天下分け目の関ケ原の戦い。信州・真田家は兄弟が東西に分かれた。謀略で知られた父昌幸がどこまで意図したかは分からないが、どちらが勝っても真田家は残る。上州の雄と言われた長野業政(なりまさ)は越後の上杉に最後まで忠誠を尽くしたが、上杉のライバルだった武田信玄に滅ぼされた。上杉の援軍が十分でなかった。
ちなみに昌幸の父幸隆は、信州の所領を追われた後、一時長野業政のところに世話になり、その後武田家の家臣として活躍、旧領を回復した。どの武将を後ろ盾に選ぶか、それが運命を大きく分けた。生き残りを賭けたシビアな”経営判断”と言える。
戦乱が収まった江戸時代。敵が攻めてくることはなくなったが、領国の運営は大変だった。物価が上がり、幕府に莫大な寄付を求められることもあった。とはいえ年貢を上げれば領民の一揆が起きかねない。
そこで新田開発を行い、増収を図る藩が多かった。「本業強化」である。しかし条件の良いところはすでに田畑になっており、そうでないところを開拓するのだから難しい。莫大な資金が必要で、うまくいかないこともある。幕府そのものも、江戸中期に権力を握った田沼意次が千葉の印旛沼の干拓に乗り出すものの、洪水もあり失敗。失脚の一因になったと言われる。
米以外のところに活路を見出そうとした藩も多い。「多角化」だ。阿波の藍染などは有名だが、ノウハウが少なかったり見通しが甘かったりして失敗に終わったケースも少なくない。収入が増えなければ借金は増える。年貢を上げれば反発される。幕府に睨まれれば領地を減らされたり、領地を代えさせられる。最悪はお取りつぶしだ。このため明治維新まで藩主が変わることなく継続できたところは多くない。
その中で新潟・新発田藩は、織田信長、豊臣秀吉の家臣だった溝口家が、明治維新までずっと藩主を務めた。外様大名では珍しく、明治維新の混乱も領民と連携して賊軍とならずに済んだと言われる。大大名ではないが、生き残ることについては歴代藩主が優秀だったということだろう。溝口家の家紋は新発田市の市章となっている。
※このコラムは毎週水曜日に掲載いたします