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ADMRコラム㉓ 戦国武将の「事業承継」
前回に続き、戦国武将を例に経営戦略を考えてみる。事業承継は整備工場をはじめ中小企業の多くが直面する課題だが、そこで失敗すると取り替え途がつかなくなるのは今も昔も変わらない。
同時の”事業承継”は家督相続として跡継ぎがすべてを引き継いだ。今でいえば会社の株をすべて後継者が取得し、全権をもつ代表取締役になるということだ。複数の子に分散すれば本家の力が弱まりかねない。大大名のように分家をつくるだけの余力があるところは少なく、また分家も多くは本家の指揮下にあった。
相続できるのは一人。直系の跡継ぎを絶やさないため兄弟は多いうえ、それぞれに育成担当の家臣がいる。出世がかかっているから家臣も必死で、それがお家騒動の要因ともなりかねない。時にはライバルである兄弟を亡き者にしてしまうこともあった。織田信長、伊達政宗、今川義元、最上義光など、有名な武将もそうだったとされる。
兄が副社長で弟が専務。次期社長を巡り社内で派閥ができて、ぎくしゃくすることは現代もしばしば見られる。物騒なことにはならないものの、後継者争いは時に社内に大きな混乱をもたらす。だから徳川家康は「長子相続」を明確に打ち出した。孫の代に長男家光と弟の忠長で後継者争いがあったとき、家光より忠長の方が武勇に優れ将軍に推す勢力も多かったというが、家中の争いを避けるため長子相続を基本にしたと見られている。
戦国時代は兄弟だけでなく親子でも権力闘争があった。武田信玄は家督相続した後に父を追放しているし、美濃の斎藤義龍のように父(国盗り物語で有名な斎藤道三)を亡き者にしたケースもある。今でも事業承継で子どもに社長を譲ったものの、方針の違いから会長となった親と口も利かくなり、最終的にはどちらかが会社を辞めてしまうケースがある。
それだけ親子、兄弟姉妹を含め事業承継をスムーズに行うのは難しいということだろう。家康は長子相続だけでなく、徳川家の血筋を守るために御三家をつくり、いざという場合はそこから跡継ぎを出すようにするなど、事業承継の基本ルールをつくった。後継者争いの混乱を避けるためだったとの見方もできる。
トップは能力があるに越したことはないが、親から子に経験を含めてすべて引き継ぐことはできない。それをサポートする重臣、今で言えば役員などの幹部がしっかりサポートすれば大きな失敗は少ない。早めに後継者候補を絞って、幹部の人材育成に力を注ぐことも事業承継を成功させる一つの方法だろう。そういえば、戦乱が収まった江戸時代には、素行の悪い殿様の実権を取り上げ、幹部で運営して藩を守る「主君押込(おしこめ)」というのもしばしば見られた。
もっとも、最近は後継者候補がいないことの方が問題にはなっているが…
※このコラムは毎週水曜日に掲載いたします