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ADMRコラム㉒ 戦国武将の「人材戦略」

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康―群雄割拠する戦国武将の中で天下人となった3人は「泣かぬなら~」のホトトギスの句で知られるように、性格もマネジメントの手法も大きく異なる。人材の活用についても、それぞれ特徴があって興味深い。 トップの判断ミスが国の存亡にかかわる戦国時代。企業ならば倒産だが、当時は命の保証もない。当然、部下の裏切り(ライバル企業への転職?)があれば。そのダメージは計り知れない。だから血縁、地縁を中心に結束を重視する。   織田信長も小国とはいえ大名であり、先代から仕える重臣や幼少期から生活をともにした部下もいる。柴田勝家、佐久間信盛などがその代表であり、信頼できる家臣たちであったことは間違いない。多くの大名はその中から幹部を登用したが、信長は「外部の人材」を積極的に採り入れた。 豊臣秀吉や明智光秀である。血縁、地縁にかかわりなく採用し、なおかつ幹部にも登用した。企業でいえば生え抜きや学歴にこだわらず、能力主義を徹底したということだろう。「鳴かぬなら殺してしまえ」と言うくらいだから”人事評価”は厳しかったが、当時としては珍しい人材登用を行い、それが天下統一の原動力になったことは間違いない。   一代で成り上がった豊臣秀吉には重臣などいない。身内や、早くから仕えてくれた部下を幹部に登用した。弟の豊臣秀長は、「長生きしていれば豊臣家は存続できた」と言われるほど能力が評価され、加藤清正や福島正則は子どもの頃から面倒を見た「子飼い」で、それぞれ大大名になった。とはいえ信頼できる家臣は少ない。 このため”ヘッドハンティング”で人材不足を補った。このあたりは、かつての主君、織田信長に似て能力のある人材を見出すことに熱心だった。黒田官兵衛がその代表例であり、徳川家康の武将だった石川数正も引き入れている。このほか、有力武将の部下で目を付けた人材は積極的に”入社”を勧誘したという。「人たらし」と言われ、「鳴かぬなら鳴かせてみよう」と、その魅力で人材を有効活用した。”転職”はしなかったが直江兼続も秀吉に声をかけられた一人だ。   天下統一をしたとはいえ、権力基盤が盤石ではなかった信長、秀吉に比べ徳川家康は「鳴かぬなら鳴くまで待とう」と、満を持して天下を取った。もともと弱小領主で苦しい時代が長かったこともあり、一緒に苦労してきた血縁、地縁の部下で幹部を固めた。「安定と継続」を重視し、御三家をつくり長子相続を基本とするなど「事業承継」の道筋を示した。重臣の一人、本多正信は一度離反したが後に戻って重用された。慎重な家康が、今で言うアルムナイ(卒業生、同窓生)採用をしたことが面白い。   ※このコラムは毎週水曜日に掲載いたします